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3月11日(水)vol.2

 

「震災」に向き合った映画に携わり、より浮き彫りとなった揺るぎない感情とは…… 
特集企画《東日本大震災から4年 メモリアル3.11》トークセッション「震災と映画」

特集企画《東日本大震災から4年 メモリアル3.11》と題し、『ヒア アフター』『唐山大地震』の上映が行われた今年。2本の映画の間にトークセッション「震災と映画」が行われました。始まりに劇場側の呼びかけにより、東日本大震災で亡くなった方々に黙祷が捧げられました。

トークゲストは松竹〈株〉常務取締役・映像本部長の大角正氏、阪神・淡路大震災20年記念作品『劇場版 神戸在住』の白羽弥仁監督。司会は映画評論家・批評家の上野昂志氏。

2011年3月11日。東日本大震災によって、当時劇場公開中だった『ヒア アフター』、『のぼうの城』などが途中で上映中止。 3月に公開予定だった『唐山大地震』は公開延期となりましたが、4年後の今年、3月14日から改めて公開となります。

『唐山大地震』は、1976年に中国・河北省で起こった唐山大地震のことを描いています。それは、2008年に四川大地震が起こった際、フォン・シャオガン監督に唐山大地震のメモリアルの映画をぜひ作って欲しいという地元からの強い要請があり、映画化への動きが始まったからだそう。国内配給は松竹が担当し、2011年3月26日の日本公開に向けて着々と試写会や宣伝活動をする中、東日本大震災が起こりました。松竹社内でも2つの意見があったという松竹〈株〉常務取締役・映像本部長の大角正氏。映画は個人がお金を払って観るものだからあえて気にする必要はないという意見と、あまりにも今はタイミングが悪いという意見。公開中止の決断に至った理由の1つは宣伝内容だったとか。各地のTVCMは、地震の場面からスタートして親子の姿が描かれて感動作を謳う流れ。しかし、地震の直後は公共広告ばかりで一般のコマーシャルはほとんど流れていなかったこともあり、宣伝活動が出来ず、上映を断念。損失が約3億円に及んだとか。

「唐山の方々が30年経って映画にしてほしいと言ったのは何故なのか。それは、建物はきれいになったけど、我々が与えられたあの時の傷は永遠のもの。それをドラマ化して撮って欲しいという思いだったようです。」

フォン監督は原作の本から相当シビアな話を選び、将来、何十年、何百年先まで残る映画になるか考えたといいます。「30年経って、昔こんな地震があったけど今はこんなにきれいになった、という映画は絶対にやりたくない。そういう強い意志があったと聞いています」と大角氏。

松竹では、2011年の全国公開決定前に、神戸の被災者、行政、警察官、消防官に向けて試写を行ったと言います。「全国の人に観せるべきだ」「我々もこういう思いを持っている」と感想を頂き、当時、全国公開を決めたとのこと。そして2015年の現在、フォン・シャオガン監督の強い思いと良質のストーリーであること、阪神・淡路大震災や東日本大震災で被災した方々が、30年後に唐山の方々と同じ思いをするのではないだろうかという強い思いがあり、この映画を観たい人に届けようと改めて日本での公開を実現させたとのことです。

  • 司会:上野昂志さん
    (映画評論家・批評家)
  • 大⻆正さん
    (松竹〈株〉常務取締役・映像本部長)
  • 白羽弥仁さん (阪神・淡路大震災20年記念作品『劇場版 神戸在住』監督)

一方、現在神戸在住で阪神・淡路大震災も体験した白羽監督は、サンテレビ45周年映画の相談を受けたことで『劇場版 神戸在住』を制作。今年の1月17日同日にTV放映と劇場公開されました。東日本大震災の被災地が復興途中である現在、お客さんがお金を払って劇場に足を運んでもらえるのか?表面だけのメモリアル映画にはしたくなかったと言います。「震災から20年経って何もかも上手くいってるかというと、決してそうではない。その後の復興のあり方についても功罪相半ばするし、人口が流出しているなど、景気の動向と合わさるが神戸自体が経済的に地盤沈下を起こしている。震災のせいばかりとは言い切れない。それも含めて検証が出来る作品にしたいなと思った」また、「被災経験を持つ役柄の竹下景子さんが、”街はきれいになったけどれも...”と言葉を留めていくことで、神戸の現状を見せた。直球で震災を描くことは避けて、言いたいことは心に秘めている人たちを描きました」とのこと。

白羽監督が劇場作品『能登の花ヨメ』を準備している際、2007年3月25日に能登半島地震が起こりました。能登半島地震の2日後現地に入るとロケハンした場所が全て被災していたため制作延期を考えたとのこと。しかし、残りの資財を出してもいいから映画を作ってほしいと地元から強い要望があり、脚本を全部書き直して撮影に入り、『能登の花ヨメ』を完成されたそう。映像のプロとしてのキャリアを積まれた白羽監督も20年前の阪神・淡路大震災の被災直後、目の前のことに精一杯でカメラを回すことが出来なかったそうで、震災直後の能登では、神戸の時に出来なかったことをカメラに託したといいます。1つは潰れた家屋を35ミリフイルムにおさめること。もう1つはいずれなくなる仮設住宅の様子をおさめ、そこにあるドラマを作品に込めること。プロデューサーからは被災した方々の迷惑になることを気遣い、反対もあったそうです。「ところが現地に行ってみるとぜひ撮影をしてくれと。協力すると言われまして。地震を描くことに対して揺るぎない哲学があるかと言えばほとんどないですけど、いかに表面だけの映画を作らないようにできるか。被災した人、そこに生きる人々の心の内側、心の機微を描くことを心掛けています」と語られました。

観客から「公開するとネットで炎上する可能性もあり、企業イメージが損なわれることを危惧して公開を中止しようという考えは全くなかったんでしょうか」と質問が挙がりました。大角氏は、「 “映画は観る人のもの”というのがベース。ましてや入場料払って見ていただくわけだから、個人の自由ではないですか。それを1番大切にすべき。当時は今のような状況はなかったけど、今だったら恐ろしいですね(笑)監督にはすぐに会いに行って、こんな事情で日本で公開できないから待ってくれ、と説明しました。そして、当時会社のみんなに言ったのは、“どのタイミングかはわからないけど必ずやろうぜ。このままでは俺は納得できない”と。それぐらい素敵な映画です」と熱い言葉が返ってきました。

白羽監督もまた「日本の場合、自粛するという傾向がある時期強くなった気がします。不謹慎だと言いがちなマスコミが、実際に足を運んで観てない場合もあります。それに対して我々は、“映画は映画なんだよ。観客一人一人が選ぶんだ。映画として観るべきだ”と、きちんと意見を出すべきじゃないかと思います」としめられました。

 

 

 

塚本晋也監督入魂の一作を担って若き森優作さん登場『野火』

特別招待作部門『野火』の原作は、昭和26年に作家・大岡昇平が、第二次世界大戦で自らの経験を元に書き上げ、読売文学賞を受賞した一作。昭和34年には市川崑監督で映画化されていますが、平成の現在、塚本晋也監督の手によってどのような映画となったのか。期待で劇場は大盛況です。

まず、仕事の都合で来阪がかなわなかった塚本晋也監督がビデオメッセージでスクリーンに登場しました。『野火』は、塚本監督が20年以上構想を温めて来たものの、金銭的事情などで制作に至らなかったとのこと。今回たくさんのボランティアスタッフと協力者の力を得て作品が完成しましたが、なぜ「今」だったのかという理由が語られました。

「戦争が終わって70年経ちました。戦争に行かれた方は90歳を越えられまして、実際戦争に行った痛み、苦しみを肌で感じている方がいらっしゃらなくなると同時に、どんどん戦争に傾斜していくことに危機感を感じまして、今つくらなければと思ってつくりました」とは言うものの、映画は観客の自由な解釈に委ねるべきものとして、一定の考えや思想を押し付けるようにはつくっていないため、多くの人に観て欲しいと熱く語る塚本監督。最後に、「今回は僕が伺えませんので、一番若い兵隊を演じました期待の新鋭の森優作くんに行ってもらっています。どうぞいじってあげて下さいませ。では、森優作くん、どうぞー!」という声援を受けて客席からも笑いが起こりました。

拍手と共に森優作さんが登場。塚本監督のストレートなメッセージを受けて、第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島を舞台にしたこの作品について、過去を再現しただけの作品ではないと語ります。「過去にあった事実を伝えること以上に、今の社会の人にも届くリアルがたくさん詰まっていると自分は信じています」

現在25歳の森さん。「戦争を知らない自分が、戦争が行われている場に放り込まれてしまったらどうなってしまうのだろうということを、役者としてお芝居をする以前に頭に置いて現場に居たつもりです」とひとりの人間としての心の在り様を大切にして現場に臨んだことを明かしました。「どうか楽しんでくださいとは言いにくいのですが、目に焼き付けて、目の前に写っているものを見つめて頂ければと思います」森さんが自分の言葉で誠実に語る姿が印象的でした。

2015年夏よりシネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸、京都シネマなど、全国順次公開予定