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演じることに打ち込む!新たな挑戦で魅せた『先に愛した人』

特集企画《台湾:電影ルネッサンス2019》の『先に愛した人』が上映となり、ブルーグレーのスーツできめた主演のロイ・チウさんが登場されました。「みなさんこんにちは。まいど!映画いかがだったでしょうか?」と、高校時代に勉強されていたという日本語でご挨拶。

チウさんにとって、挑戦的な役を演じることとなった本作。「できるだけカメラを意識せず、演じるということやめて、100%この人物になりきってくださいと、最初に監督からリクエストされました」と明かし、「ゲイの役ではありますが、このキャラクターは男、女に対しても同じような雰囲気です。ゲイだからではなく、そういう性格の人間として演じました」と話されたチウさん。

劇中では舞台劇の世界も描かれたが、「兵役から戻って、1年演劇の訓練をしました」と話し、実際に同じストーリーのお芝居を、劇場で公演したとのことを明かされました。

また会場から、劇中で歌を歌われていたところから今後の音楽活動について聞かれるとチウさんは「演じることと歌うことを両方一緒に進めることは難しいかと。今は演技を一生懸命したいと思っています」と答えられました。

そして最後に、「もしよかったら、電車にのった時に、となりの人にこの映画をすすめてください」とユーモアを交え日本語で締められました。

バルカン半島に魅了された監督が撮った二作目『いつか、どこかで』

特別招待作品部門『いつか、どこかで』の上映後、リム・カーワイ監督と出演のアデラ・ソーさんが登壇されました。昨年も今年と同じ3月13日に、前作『どこでもない、ここしかない』(OAFF2018)が本映画祭で上映されていて、舞台が共にバルカン半島であることも紹介されました。

リム・カーワイ監督

アデラ・ソーさん

ソーさんは「仕上がった映画は今日初めて観ました。バルカンでの撮影が半年前。でも、もっと昔、もっと以前のことのようです。距離を置いて観ると新たな感動がありました」と語られました。また、本作が長編デビュー作となったマカオ出身のソーさん。「バルカン半島は本当にきれい。風景が美しい。それだけじゃなく、複雑な歴史、文化に深い印象を受けました。向こうで一緒に演じた役者たちが同じ90年代生まれで、彼らは戦争を経験。マカオにはないことで、衝撃を受けました」と撮影地への感想を述べられました。

その他のキャスティングについて「私がプロの役者として決まっていて、後は現地で。例えばホテルの宿泊客にお願いしたり、現地の役者さんにもお願いしたり。通りの人に声をかけたりとかも」とソーさんが明かすと「娘役も本当の娘ではなく、街でスカウトしました」と監督。

前作完成後、本作の撮影にとりかかるまでの間について聞かれると監督は「撮影としては、一年あいていますが、準備とかにすぐ取り掛かったので、実際にはあいていないです」とご説明に。また、舞台が引き続きバルカン半島であることについて「前作はトルコ系マイノリティを扱いましたが、今回は違う。バルカン半島をいろんな角度で切り取って描きました」と監督。「三部作になっていて、これが二作目です」とも明かされました。

あの矢崎監督デビュー作がスクリーンに!熱のこもった話に会場もくぎ付けに『風たちの午後 デジタルリマスター版』

特別招待作品『風たちの午後 デジタルリマスター版』の上映後、トレードマークのサングラスをかけた矢崎仁司監督が登壇。大きな拍手に迎えられました。

監督は「まさか2年連続で呼んでいただけるとは(『スティルライフオブメモリーズ』)。大阪は大好きな土地で、織田作之助の小説の主人公のように街を歩いたこともある。そんな大阪の映画祭に呼んでいただいて嬉しくてしょうがないです。本当にありがとうございます」と挨拶をされました。

本作は1980年に監督が24歳の時に16ミリフィルムで撮られた長編デビュー作。今のデジタル技術ではかなり綺麗な映像にする事が可能だったが、なるべく当時の雰囲気を大切にした、というデジタルリマスター版での上映でした。

作品は女性から女性への恋愛感情を、しかも一途で痛々しい関係を真正面から捉えて、当時は問題作として、センセーショナルに取り上げられた一作。当時を振り返り監督は「海外の映画祭でも、レズビアンの方から、この映画はレズビアンの映画ではない、“恋愛映画だ”という反応を頂いた。この映画に出逢えた事が、今、僕がここに立っているという事につながります」と話されました。

会場から公開当時の観客からの反応について聞かれ「映画館で拍手がおきたり、好意的に受けとめられる事が多かったです。当時は“LGBT”という言葉もなく、人が人を好きになるってこういう事だ、という思いでこの映画を撮った。ただ世間では、若干24歳の学生が撮った女性映画、の様な宣伝をされたりしました」と監督は振り返り、「海外ではゲイフェスティバルなどで上映されたが、ゲイとか近親相姦とか、そういう型にはめる見方が嫌いで、むしろそういう考え方を壊したいと思う気持ちでこの映画を撮ったのです」と説明されました。

また当時は映写室に「金返せ!」と苦情がきたし、音が聞こえないとかなりクレームが出たそうで、監督自身が上映に立ち会うようにされていたとか。その構成、演出の意図としては「当時、目をつぶっていても判る映画が多く、映画はラジオドラマではない、映像で勝負するのが映画だ、と思い、観る事を観客に強いるものにしたかった。そこで音量を調節するため、当時全ての上映に立ち会ったのです」と語られ「お陰で日本全国を回る機会を得ました」と付け加えられました。

また「エジンバラ国際映画祭の時は、その熱意を認められたのか、ロンドンまで自力で来ればエジンバラまでの移動と宿泊は面倒をみる、と提案頂き現地に行くことが出来ました。そのお陰で、デレク・ジャーマンやエドワード・ヤン、侯孝賢らと出逢えたのです。特にデレク・ジャーマンとの出逢いは衝撃で、例えるなら自分の映画はスクリーン表面で小さく愛を囁いているだけだが、デレク・ジャーマンのは会場内が愛で満ち溢れるスケールの大きさを感じ、大いに反省。それで日本に戻り『三月のライオン』を撮影しました。この映画がベルギー王室主催ルイス・ブニュエルの黄金時代賞を受賞。前年受賞者のデレク・ジャーマンにそこでやっと追いつけた、と感じました」と貴重なエピソードも語ってくださいました。

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